グイノ・ジェラール神父の説教



B 年  2017〜2018

待降節の主日


四旬節の主日



待降節第1主日
待降節第2主日
待降節第3主日
待降節第4主日


四旬節第1主日
四旬節第2主日
四旬節第3主日
四旬節第4主日
四旬節第5主日
枝の主日


          待降節第1主日 B年  2017123日   グイノ・ジェラール神父

               イザヤ63,16-64,7  1コリント1,3-9  マルコ13,33-37

  待降節の始めに、イエスは私たちに次のように忠告します。 「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。 目を覚ましていなさい」と。 目を覚ましていることは未来の出来事を待ち望みながら、現在することから離れないことです。 待降節の期間中に私たちが目覚めるべきことは、まず、前よりも祈ることです。 それは、神そして近くにいる人々の呼びかけに注意深い人となるためです。 また私たちは、祈ることによりますます大きくなる喜びをもって、キリストの誕生を熱心に待つことができます。 ですから、私たちを救うために来られるイエスを歓迎するために、私たちは目覚めています。

  ラテン語のadventus(待降節)は「到来」を意味します。 待降節のときのために、聖ベルナルドが作った5番目の説教を通して「主の到来は三つある」と教えています。 第1の到来はベツレヘムでのイエスの誕生です。 第3の到来は世の終わりに栄光のうちに、イエスが帰って来られることです。 第1と第3の到来の間に、第2の到来があります。 その到来が今日から私たちの人生の終わりの日まで、ずっと続いて実現されます。 すなわち、世の終わりまで一緒におられるイエスが来られるので、私たちは救い主イエスを毎日歓迎するように心を整えて目覚めています。 「喜んで正しいことを行い、神の道に従って、神を心に留める者を」イエスは絶えず迎えに行きます、と預言者イザヤは第1の朗読を通して思い起こさせました。

  祈りと信仰のうちに目覚めてイエスを待つことは、私たちの心のうちに希望と喜びを芽生えさせ、それを成長させます。 イエスの現存を告げるしるしを見分けるためには、自分の心を目覚めさせる必要があります。 たとえば、信徒の共同体の中で、司祭がキリストになっていることを再発見することです。 または、自分の周りに集まって来た人のうちに、神が私たちに与えた兄弟姉妹を見分けることです。 さらに、目覚めているキリスト者は個人的あるいは共同体的に、すべての出来事が自分自身の人生にある神の指の力のしるしであることを信じます。 このように、キリストを待ち望みながら目覚めていることは、私たちのうちに愛と感謝を強く湧き出させることです。

  私たちを癒し救うためにキリストが再び来られますが、いつ完全に戻って来るか、私たちには全く分かりません。 そのために、私たちの期待は毎瞬毎瞬の期待となるべきです。 神を待ち望む人に、神は遠く離れていません。 不思議なことですが、ご自分の現存と不在によって神が自分自身を与え、希望する人に必ず適切な恵みを与えるのです。 そういう訳で、待降節のときは希望のときです。 「天よ、露をしたたらせ、雲よ、正義を降らせよ。 大地よ、救い主を生み、正義の花を咲かせよ」(イザヤ45,8)と入祭のとき、私たちは歌いました。確かに、聖パウロが教えているように「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています」(ローマ8,22)。 言い換えれば、天と地は私たちと共に、イエスの到来を待ち望んでいます。 と言うのは「イエスはすべてを新たにする」(黙示録21,5)ために来られることを、私たちも大自然も宇宙万物も知っていますから。

  キリストは私たちの光です。 私たちがこの光のうちに歩むことができるように、イエスは来られます。 確かに、イエスが来られるのは私たちの暗闇を追い払うためです。 私たちは信仰のうちに眠ってしまわないように、目覚めていることが肝心です。 聖母マリアの祈りが私たちの助けとなり、また、私たちの希望をもっと活発なものとしますように。 信仰のうちに目覚めたままで、聖母マリアと共にキリストが来られるのを待ち望みましょう。 アーメン。



            待降節第2主日B年  20171210日   グイノ・ジェラール神父

                 イザヤ40,1-59-11  2ペトロ3,8-14  マルコ1,1-8

  新約聖書の中で洗礼者ヨハネについてだけ、彼の食べたもの、服装について詳しく書かれています。 ユダヤ教の伝統が世の終わりに来られると伝えている預言者エリヤと同じように、洗礼者ヨハネはラクダの毛衣を着ています。 このようにして聖マルコは、来られるべきエリヤとして洗礼者ヨハネを紹介しました。 洗礼者ヨハネはイナゴと野蜜を食べていました。 それらの食べ物は40年間の砂漠の生活をしたイスラエルの民に律法の書(レビ記11,22)で赦されていました。蜂蜜は、約束された地のシンボルです。 そこでは乳と蜂蜜が豊かに溢れているからです(出エジプト33,3)。

  メシアの到来によって新しい世界が始まると洗礼者ヨハネは告げます。 マルコは、福音の初めにそのことをはっきり告げました。 「神の子イエス・キリストの福音の初め」と。このようにして、聖マルコは預言者エリヤの姿で旧約聖書の最後の日に現れる洗礼者ヨハネを紹介し、同時に新しい世界の最初の日を告げます。 メシアの到来を告げるために預言者イザヤのメッセージをありのままに叫ぶことによって、私たちを救うために来られる救い主を歓迎するように、洗礼者ヨハネは私たちに改心の道を示しています。

  聖書によれば神は、慰める方としてたびたび紹介されています。 羊の売り買いをする人ではなく、人を慰める羊飼いとして神を私たちに紹介します。 「見よ、主なる神。 主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」と。 自分たちのうちに憐れみのない石のように固い心を保つなら、はたして私たちは神の母性的な慈しみを受け止めることができるでしょうか。 もし、私たちの心が赦しを拒否し、利己主義と無関心に閉じこもるならご自分の心に私たちを抱く慈しみ深い神を歓迎できるでしょうか。 そういう理由で、私たちは自分の心の中に神への道をまっすぐに整えなければなりません。

 自分たちの心を建て直すため、また神の呼びかけに注意深くなるように、もう一度聖ペトロの言葉を聞きましょう。 「主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。 そうではなくて、ひとりも滅びないで皆が悔い改めるようにと忍耐しておられるのです」と。 悔い改めることは、自分が離れてきた道徳的な模範に従うことではなく、むしろ自分の存在のうちに新しいものを取り入れることを始めることです。 なぜなら、すべての回心は救いの喜びを与える新しい出発です。 回心は、私たちを慰め、癒し、赦し、救う神の貴重な賜物です。

 ですから、この待降節は私たちにとって回心、希望、喜びの溢れる期待の時となりますように。 良い羊飼いとして神はご自分の心に私たちを抱き、慰め、聖化するために来られます。 ですから、神が私たちと出会うために来られる道をよく準備しましょう。 そうすれば、愛と慈しみの神は、ご自分で救いの業を私たちのうちに完成されるでしょう。 アーメン。



        待降節第3主日 B年  20171217日   グイノ・ジェラール神父

            イザヤ61,1-2,10-11  1テサロニケ 5,16-24  ヨハネ 1,6-8,19-28

  今日、私たちは聖書で有名な四人の証人と出会います。 四人の証人とは、預言者イザヤ、聖パウロ、聖マリアと洗礼者ヨハネです。 彼らはそれぞれに、自分たちの人生を満たした喜びについて証ししています。

  預言者イザヤは、数世紀後にイエスも繰り返す言葉で自分の歓喜を宣言しました。 「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。 私を遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。 打ち砕かれた心を包むために。」と。 聖マリアも同じように、神が自分を顧みられ自分の内に偉大な業を行うことを、今日の詩篇の歌を通して自分の喜びを叫びます。 テサロニケ教会の信徒と共に聖パウロは、自分の喜びを分かち合います。 「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。」と。 最後に洗礼者ヨハネはメシヤの到来を告げることができる喜びを伝えます。 「わたしは彼の履物のひもを解く資格もない。」と。

  今日の日曜日の喜びは特別です。 謙遜な心の人が、この喜びを味わうことができます。 この喜びは人を自由にし、強め、跳ね踊らせ、良い知らせを伝える者を遣わし、山を乗り越えさせます(参照:イザヤ52,7)。 またこの喜びは救いの良い知らせを伝えるために、聖パウロがしたと同じように、地の果てまで行く力を与えます。 この日曜日の喜びは、またそれを味わう人の心を妨げている物事を追い出し、人を自由にします。 それはその人が神の恵みをもっと多く受けるために、そして他の人にその喜びをもたらすためです。 心の自由を持っている聖マリアには、それが良く分かりました。 ですから「神は見捨てられた人を高められ、飢えに苦しむ人はよいもので満たされる」と聖マリアは宣言します。

  確かに今日の福音は、はっきりとした表現で洗礼者の喜びを示そうとします。 しかしこの喜びは半分隠れていて半透明の状態になっています。 この喜びは期待の喜びです。 洗礼者ヨハネはこの期待の喜びによって変容されています。 洗礼者ヨハネは「光ではなく、 光について証しする。」謙遜な者であり、また「荒れ野で神の言葉を叫ぶ声です」。

  キリストの証人となっている私たちも、預言者イザヤ、聖マリア、洗礼者ヨハネ、聖パウロが昔、深く味わった神の喜びを歓迎しましょう。 この四人に倣って、私たちも光の証人となりましょう。 主の道を整えようと気を配って、喜びの心で神の愛を宣言しましょう。 私たち一人ひとりが、イエスからこの使命を受けたからです。 この使命を謙遜に果たすために神のみ言葉の泉にたびたび近寄りましょう。 また、キリストの御体と御血で自分を養い、イエスの赦しと聖霊の力を受ける恵みを望みましょう。 そのためには、神とますます一致するためにミサ祭儀に与りましょう。

  心の自由な人だけが、神から来る今日のような喜びを受けることができます。 縦笛で美しいメロディーを奏でるためにどうしても空気の流れる道に穴が綺麗にくり抜かれることが必要です。 ですから、私たちのうちにある聖霊の息吹を妨げる物事をくり抜きましょう。 そうすれば、全ての人に提案されている神の喜びのメロディーを聖霊が私たちを通して、美しい音色を奏でるでしょう。 アーメン。



         待降節第4主日 B年  20171224日  グイノ・ジェラール神父

               2 サムエル7,1-16  ローマ 16,25-27  ルカ1,26-38

 神の子イエスは、神ご自身が決められた民と家族の中で、また歴史の中の時宜にかなった時に生まれました。 イエスはダビデ王の子孫であり、ヨゼフのいいなずけである聖母マリアの子です。 ローマ人にコントロールされたユダヤ教の雰囲気の中でイエスは教育を受け、日常生活を通してナザレの村の人々と出会いながら、自分の考え方や話し方を身につけました。 イスラエル人と同じようにイエスは話し、祈り、様々なことを行います。 ユダヤ教の文化を身につけて大人になったイエスは、私たちに自分の使命と役割を説明しました。

 聖書の教えをよく理解するためには、イエスが生まれ育った神に選ばれたイスラエルの民の文化の知識を理解することが必要です。 なぜなら、イスラエルの文化の土台は神の言葉ですから。 イスラエルの民は、「神のみ言葉の民」と呼ばれています。 昔、アブラハムは神の言葉を聞いて自分の国と故郷を離れ約束の地に着きました。 エジプトの奴隷の状態からヘブライ人を解放するために、モーセが神の言葉によって遣わされました。 サムエルを初めイザヤ、エレミヤ、そしてすべての預言者は神の言葉に導かれて、自分の生き方を新たにしました。 それと同様に、イエスの母になるために、乙女マリアは神の言葉に自分の心を開きました。 「わたしは主のはしためです。 お言葉どおり、この身に成りますように」と。

 イエスの弟子たちや聖パウロに続いて、神の言葉が私たちを照らし、導き、救うことを私たちは知っています。 そしてそのことを固く信じています。 神の言葉がイエスを通して肉となりました。 それは私たちがキリストによって神の子となる資格を受けるためです(参照:ヨハネ1,12)。 そういう訳で、私たちにとっても聖マリアと同じように、旧約聖書と新約聖書が告げる、命と救いの言葉に耳を傾けることが肝心です。 「耳のある者は聞きなさい」とイエスは何度も繰り返して勧めていました。

 明日、私たちはキリストの誕生、即ち「肉となって、わたしたちの間に宿られた神のみ言葉」(参照:ヨハネ1,14)を祝うのです。 この神秘を中々上手に表せない言葉で、私たちはこの誕生日を祝うでしょう。 しかしこの神秘は天国の喜びとなり、地上の人々に平和をもたらし、そして父なる神に栄光を与えています。 人間になる神の神秘、イエスの誕生の神秘は「信仰による従順に導く」と聖パウロは教えています。 言い換えれば、私たちは神の子供としての栄光ある自由に導かれています(参照:ローマ8,14-17)。 人類を救うキリストはすべてにおいて私たちと同じように生活し、私たちの間に宿り、世の終わりまで一緒に留まります。 私たちのうちで永遠の喜びと永遠の命の泉となるために、特にイエスは私たちの心に住みたいと望んでいます。

 イエスは雲の上にも、遠く離れた所にもいません。 イエスは私たちが生きている、毎日、私たちが居るところに一緒にいます。 私たちがするべきことは、イエスを歓迎することだけです。 ですから、聖母マリアと共にイエスを迎える心の準備をしましょう。 そして、自分の言葉にして聖母マリアの言葉を神に言いましょう。 「お言葉どおり、わたしの身に成りますように」と。 そうです、今日そして毎日、神の言葉を自分の人生の土台としましょう。 この言葉は、私たちの期待することや私たちの想像力を遥かに超えています。 アーメン。



        四旬節第1主日B年  2018218日  グイノ・ジェラール神父

              創世記9.8-15   1ペトロ3,18-22  マルコ1,12-15

  ノアの洪水の物語は、愛の契約で終わります。集まったノアの家族の前で、神はすべての被造物と正式な契約を結びます。神は次のように宣言します。「わたしはあなたがた及びあなたがたの後の子孫と契約を立てる。…これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。」(参照:講談社 図説大聖書 第1巻)神はもう二度と怒らないこと、罪びとを罰しないことを誓いませんが、むしろ人間が正しい道を離れないように、神はその人間に方法を与えます。人間が受けた神の契約を思い起し、またそれに忠実であるように、神は目に見えるしるしとして空に虹を置きます。このようにして、ノアの神はもはや人に復讐し、人を罰する神ではなく、むしろ救いの道を示しながら赦す神・愛する神として現れます。

  今日、歌ったばかりの詩編は、ノアと彼の子孫に立てた神の契約を思い起させます。「神よ、あなたの道を示し、その小道を教えてください。あなたはわたしを救う神だから」と。聖ペトロは、キリストの復活の光でノアの物語を次のように解釈します。と言うのは、神が昔、ノアと言う正しい人を救ったとき、これから後、人間が二度と裁かれないことを約束しました。決められた日、イエス・キリストを通して神の約束が実現されました。イエスは神の裁きを自分が背負い、「正しい方であるイエスが、正しくない者のために苦しまれたのです」とペトロが説明します。

  次のことを言いながら、聖ペトロが自分の教えをもっと詳しく教えようとします。「イエスは陰府の国に捕らわれている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた」(講談社 図解大聖書 第6巻)と。そういうわけで、死んだ人も生きている人も生きる誘いを受けました。キリストが神と私たちを和解させました。罪が人間を落とす深い淵の底までイエスは下りて行き、わたしたちを探して解放し、希望の方へ連れ出します。イエスにおける私たちの信仰が悪のすべての力よりも強い希望を与えるからです。この事実について私たちは証人となりました。

  マルコは短い文章を通して、イエスの受けた誘惑について述べました。この誘惑は特に神に対する信頼と不信についての誘惑です。毎日祈ることを要求するイエスは、この誘惑について語っています。「誘惑に陥らせず悪からお守りください」と。真に誘惑は信仰を失うこと、または神に対する信頼を失うことです。つまり、神に対して疑いをもつことです。必要な物が足りないので、或いは病気・失敗・思いがけない出来事のせいで神を見捨てることや、自分の不幸の責任を神に着せることは簡単です。

  四旬節の時は、誘惑に対して戦うことを学ぶ時です。四旬節の時は、聖霊の賜物を豊かに受けるために、私たちの信仰を強める時です。また、私たちがゆっくりイエスを見、彼の言葉を味わい、彼との親密な現存を深く望むように四旬節の時は非常に役に立ちます。ですから、神を待ち望むことを40日間に亘って学びましょう。また、神の愛の契約のうちに生きるために、日常生活と自分の救いのために肝心なものを発見することも学びましょう。更にこの四旬節の間に、聖霊の働きかけのもとでイエスに従って死から命へ、絶望から希望へ、疑いから信頼へ過ぎ越すことも学びましょう。アーメン。



       四旬節第2主日 B年  2018225日    グイノ・ジェラール神父

        創世記 22,1-29,10-1315-18    ローマ 8,31-34   マルコ 9,2-10

  イサクのいけにえの物語とイエスのご変容の話は、私たちが宣言する信仰について大切なことを教えています。 と言うのは、信じることは神と共に歩むことです。 「私の前に歩み、完全なものであれ」(創世記17.1)と神はアブラハムに言われました。 イエスもたびたび出会う人々に「起きて、歩きなさい」「わたしについて来なさい」と誘います。  このようにキリストの後に歩むことによってペトロ、ヤコブ、ヨハネはイエスの証人となることを学びました。 この四旬節の間に、私たちが完全な者になるために、そして神の現存の前に留まるように、イエスの足跡に自分の歩みを入れるように招かれています。 信仰の内に歩むことによって、私たちは自分の固有の変容を迎えます。

  二十年以上に亘る様々な試練を通してアブラハムは神に導かれて歩み続けました。 しかし神は彼に信じにくいことを約束しました。 例えば「あなたの子孫にこの土地を与える」(創世記12,7)と。 非常に年老いたアブラハムには子孫がありませんでした。 そして約束された土地には、カナン人たちが住んでいます。 それにも拘らず、アブラハムは神の言葉を信じながら忠実に神が示された道を歩み続けました。 年を老いてやっと与えられた愛する子イサクをいけにえとする願いを神から受けたアブラハムは、直ぐに神が教えた山に出発しました。 神の言葉に対する信頼と従順が、アブラハムに彼自身と彼の子孫に神のすべての祝福を引き寄せました。

  アブラハムが体験したことは、イエスの弟子たちにとって、従うことは模範となりました。 「わたしについて来なさい」とイエスは選ばれた人々を誘います。 彼らは皆、仕事と家族を捨て、直ぐイエスに従いました。 すべての祝福の泉である聖霊の賜物で彼らが満たされる日まで、彼らは三年の間様々な試練と出会いました。 イサクをいけにえにすることは、免れました。しかし、イエスをいけにえにすることは全うされました。 「神はその御子をさえ惜しまず死に渡された」と聖パウロはローマの教会への手紙に書き記しました。 十字架にかけられたイエスの死は、すべての弟子たちにとって恐ろしい悲劇でした。 受難の時、弟子たちは皆逃げ、ペトロはイエスと自分の仲間の関係を否定しました。 そして裏切り者ユダでさえ自殺しました。 しかし、イエスの復活の証人になったこの弟子たちは、イエスと共に始めた歩みを地の果てまで伝え続けています。 彼らはイエスと一緒にいた時と同じように、奇跡と教えによって全世界に救いの良い知らせを宣べ伝えるようにしました。

  今日も神の救いが全人類に宣べ伝えられるように、どの時代にもある終わりのない迫害と試練を通してキリストの教会はイエスと共に歩んでいます。 ですから、私たちの信仰はアブラハム、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、および福音の全ての証人と同じようにならなければなりません。 つまり信仰のうちに足踏みをすることは決して許されていません。 神の言葉が私たちの歩みと共に私たちの考えや話し方、そして私たちの行いや人生の計画を導かなければなりません。 ですから神がアブラハムに言われたように、私たちも「神の前に歩みながら、完全なものになりましょう」。それが実現されるために、祈りと神の言葉に対する注意深さが私たちの信仰の支えとなることが肝心です。 疑いもなく、あらゆる種類の試練を通して、神は私たちと一緒に歩みながら、聖霊の力のうちに私たちを無事に復活の栄光まで導いてくださるでしょう。 「主よ。 あなたの道は聖化への道です」(参照:詩編77,14)。

  「私たちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます」(2コリント3,18)と聖パウロはコリントの教会への手紙で説明します。 イエスに従って、信仰の長い道のりの終点に辿り着く時に、私たちは永遠に神の国の喜びと祝福で満たされるでしょう。 私たちはそれを信じ、宣言し、待ち望んでいます。 アーメン。



        四旬節第3主日 B年   201834日   グイノ・ジェラール神父

             出エジプト20,1-17  1コリント1,22-25  ヨハネ2,13-25

  エルサレムの神殿は、イスラエルの民の唯一の礼拝の場所でした。 この神殿は神の地上での臨在の唯一の場所と考えられていました。 神の住む場所は天の国です。 エルサレムの神殿の中では、商売をする人と両替をする人がどうしても必要でした。 なぜなら、エルサレムの巡礼をする人々は、神殿の中でいけにえを献げるために必要な物を買っていたからです。 また、この神殿では大祭司の認可を受けたお金しか使われていませんでした。 そのために、様々の国から来た巡礼者たちはお金を両替する必要がありました。

  神殿の境内でキリストが行なった乱暴な態度には、二つの意味がありました。 まず、イエスは神の礼拝所で行なわれた商売に異議を唱えました。 イエスは祈るため、また、いけにえを献げるために人々が神殿に行くことをよく知っています。 問題なのは、その供えられるいけにえを商売人との激しいやりとりによって買値を値切ったことでした。 献げ物を値切るように、人は神に対して何かを受けるために条件を付けて同じことをしました。 言い換えれば、そのやり方は「ギブアンドテイク」でした。 そういう訳で、イエスは神に対して条件を付ける宗教的な態度を咎めています。 イエスにとって、すべては神によって与えられ、しかもそれは無償で与えられています。 神ご自身が本質的に無償な賜物です。 イエスは動物のいけにえを止めさせるために来られました。 この血まみれのいけにえの最後は、イエスが十字架上で命を捧げる時に行なわれました。 ですから、私たちが条件付けをしたり、制約を付けたり、値切ることなく、無償で神と出会うようにイエスは教えています。 そして、神を喜ばせる善いいけにえとして自分自身を捧げることをイエスは私たちに願っています。

  この願いは後に聖ペトロと聖パウロによって、再び繰り返されました。 「兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。 自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。 これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12,1)と。 「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。 そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」(1ペトロ2,5)と。

  イエスの第二の教えは、エルサレムの神殿の必要性と関係しています。 「この神殿を壊してみよ。 三日で建て直してみせる」とイエスは言いました。 イエスの敵たちは、この言葉を利用して、イエスの裁判の時に彼らの標的(ターゲット)にしました。 エルサレムの神殿はどうしても破壊されることが必要不可欠でした。 このような神殿はもう必要ありません。 神はいくらその場所が優れていても、そこに閉じこもることを望みません。 真の神殿はイエス自身です。 イエスは「見えない神の目に見える姿」(参照:コロサイ1,15)です。 「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである」(ヨハネ12,45)とイエスは言いました。 そういう訳で、今日「建物の教会を神の家」だと言うことは正しくありません。 「教会は神の民の家」です。 なぜなら、神が私たち一人ひとりのうちに住んでいらっしゃるからです。

  信仰によって、私たちは皆イエスにおいて聖霊の神殿となりました。 この事実を固く信じる私たちは、自分のうちに父なる神を探し、祈らなければなりません。 そして度々キリストが言われた言葉を思い起こしましょう。 それは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と。 世の終わりまでイエスは聖なる神殿である私たちのうちに留まるので、ミサ祭儀を通してイエスの現存を体験し味わいましょう。 アーメン。



        四旬節第4主日B年   2018311日     グイノ・ジェラール神父

             歴代記下36,14-1619-23  エフェソ2,4-10  ヨハネ3,14-21

  今日の第一朗読は、私たちにエルサレムの神殿の破壊と、奴隷になったイスラエルの民のバビロンへの追放を思い起こさせました。 「神は傷を負わせても、傷を包み、怪我をさせても、その手で癒やしてくださる」(フランシスコ会訳:ヨブ5,18)とヨブ記が教えています。 と言うのは、イスラエルの民は偶像礼拝と不忠実のせいで神から罰を受けました。 しかし、何年か後に神の赦しと救いを受けます。 そして癒されたイスラエルの民は、エルサレムに戻り、破壊された神殿を建て直しました。

  あらかじめ出エジプト記は、同じシナリオを語りました。 神に反したイスラエルの民は毒蛇の罰を受けます。 しかしモーセの執り成しのお陰で、この民は命と救いを受けることができました。 モーセの青銅の蛇が揚げられたように、全人類を救うために十字架の上でイエスも上げられるでしょう。 と言うのは、イエスの名は「神は救う」を意味しているからです。 イエスを信じ、イエスの十字架を仰ぎ見る人々は皆救われます。

  この四旬節の時期は、忠実に信仰を生きるように私たちを招いています。 また、私たちを救うためにあらゆる手段を使っている神に、感謝の祈りをささげるように誘われています。 しかし、聖ヨハネが言っているとおり、私たちは光よりも暗闇、神の偉大な救いの計画よりも自分たちのつまらない企画を好みます。 「神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいてわたしたちを造られたのです。 わたしたちは、その善い業を行なって歩むのです」とエフェソの信徒への手紙に聖パウロは書き記しました。

  「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」。 キリストの十字架と受難は、神の憐れみといつくしみの顔を啓示しています。 神は愛そのものです。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛されました」。 罪、悪、死に面して、神はご自分の命を分かち合うことを私たちに提案します。 この命は永遠であり、愛と赦しで溢れています。 信じることとは、自分の全存在を要求されます。 信じることは、暗闇よりも光を選ぶことです。 信じることを拒否することは光よりも暗闇、命よりも死を好むことです。神は愛といつくしみの神だからこそ、誰も裁かず、誰も罰したりされません。 残念なことに、信じたくない人は既に裁きを受けています。 なぜなら、この人は自分自身を罰し、裁いているからです。 自分の自由な意志で光を否定する人は、その結果も自分で負わなければなりません。

  むしろ「真理を行うは光の方に来る」とイエスは断言しました。 愛を持って救うイエス・キリストを迎えるために、信仰の助けによって努力する人は、既に「永遠の命」に与かっています。 何度も繰り返す同じ罪にも拘らず、自分の弱さを認めながら諦めずに自分の悪い傾きと戦い続ける人は、すでに「光の子」(1テサロニケ5,5)です。 悪の力は絶対に勝利を収めないと信じる人は、永遠の光の内に入っています。 神の揺ぎ無い愛と信仰の支えに強められて、私たちは平和と喜びに輝いている「光の子ら」になりましょう。 アーメン。



         四旬節第5主日 B年   2018318日   グイノ・ジェラール神父

                エレミヤ 31,31-34  ヘブライ 5,7-9  ヨハネ 12,20-33

  不思議な文書を通してヘブライ人への手紙は、今聞いたばかりのヨハネの福音の箇所のテーマを纏めています。 「キリストは神の子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。 そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となりました」と。 罪のない無実のものとして十字架上で死ぬことによって、イエスは私たちに対する神の愛の神秘を啓示しました。 そして死に至るまで示された従順によって、イエスは父なる神の方へ私たちを導くために救いの門を大きく開きました。

  「従順」と言う単語は、ヘブライ語とラテン語で「耳を傾けること」を意味します。 イエスは死ぬまで父なる神の声に耳を傾け言われたことを実現しました。 従順であることは、イエスにとって豊かな実を結ぶことです。 また、イエスにとって死ぬことも豊かな実を結ぶことです。 「はっきり言っておく。 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。 だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とイエスは教えました。 イエスの話を聞いたギリシャ人たちは、きっと彼の説明の意味を理解できなかったでしょう。 なぜなら、イエスは自分が死ぬ必要性を話すと同時に、死ぬことに対する恐怖についても語ったからです。 そしてその後直ぐに、イエスはサタンが敗戦することと自分が受ける栄光について語りました。

  「栄光」という単語は、今日の福音の箇所で四回使われています。イエスは自分が栄光を受けると宣言した途端、神の声がそれを確認します。 「わたしは既に栄光を現した。 再び栄光を現そう」と。 この証しは次のことを意味します。 皆に見捨てられたイエスは必ず「神の子」として啓示され、彼の本当のアイデンティティが公に表明されるのです。 しかしそれは、十字架上での死によってイエスの栄光が啓示されるでしょう。 すべての人は十字架につけられたイエスを仰ぎ見なければなりません(参照:ヨハネ19,37)。 地上から上げられたイエスは、すべての人を自分のもとへ引き寄せます(参照:ヨハネ12,32)。 十字架につけられたイエスを見ることによって、私たちを救うためにご自分の命を与える神の無限な愛を人々が見つけるように招かれています。

  自分自身に死ななければ愛することは無理です。 実を結ぶには自分自身に死ぬことが必要です。 愛するために、自分の利益や考えや計画や小さな楽しみを退けて、他の人の幸せを選ばなければなりません。「キリスト・イエスにあっていただいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互いにいかしなさい」(参照:図説大聖書第6巻フィリピ2,5)と聖パウロは勧めます。 キリストのように生きることはとても難しいです。

   しかし聖パウロが勧めることを、個人の水準よりも、特に共同体の水準として行なうべきです。 私たちが形作っている教会も自分自身に死ぬことで、もっと世界に心を開くことが肝心です。 愛の行いをしない教会、ますます正義や和解や真理を望まない共同体は、決して「キリストの教会」と呼べません。

  あと数日で、私たちは聖週間に入ります。 自分自身に死ぬことによって、愛に生きるようにと、イエスは再び私たちを誘います。 与える人は豊かに受け入れ、「自分の命を失う人はそれを保って永遠に生きる」と、イエスは今日私たちに思い起こさせました。 私たちがそれを実現するために、イエスは私たちの直ぐそばにいらっしゃいます。 ですから、ますます父なる神の方へ引き寄せられるためにイエスを仰ぎ見ましょう。 イエスは必ず「愛の完成」まで、私たちを導くからです。 アーメン。



        枝の主日 B年  2018325日   グイノ・ジェラール神父

          イザヤ 50,4-7  フィリピ 2,6-11  マルコ 14,1-1547

  死の瞬間までイエスは、父なる神に対する限りのない愛を忠実に示しました。 同時に、死に至るまで忠実にイエスは、全人類に対する同じ限りのない愛を示しました。 イエスは自分自身で自由に承諾したご受難によって、罪を犯させるように人を引き寄せる悪の力を、砕き滅ぼしました。 罪は律法学者、ファリザイ派の人と大祭司たちを憎しみに陥らせました。罪はピラトと群集を無責任な者そして臆病な者に変化させました。  そして罪はユダを裏切り者にさせ、ペトロでさえもイエスを否定する者にさせ、弟子たちはイエスを一人ぼっちにさせて逃げ去り、イエスから遠ざかる者になりました。

  人間の暴力の力に直面しても、イエスは終わりまで愛を注ぐ人に留まりました。 勿論、受難の時が近づいていることを知っているイエスは、不安と言い表せない苦悶に襲われていました。 ゲッセマネで流した血の汗が、どれほどイエスを一人きりにさせ、孤独にさせたかを現しています。 十字架上でイエスは父なる神からも見捨てられたと叫ばれました。 しかし、言葉で言い表せない孤独と苦しみを越えて、イエスは終わりまで愛する使命を捨てずに忠実でした。 死ぬまで、そして死を超えて、イエスはいつまでも愛する方、赦す方、世を救う方です。

  全人類のために命を捧げたイエスは、私たちに天の門を大きく開きました。 その時からイエスはすべてを新たにし続けます。アダムとエヴァを通して始まった救いの業は発展をなし遂げるために、十字架上でのキリストの死と栄光の復活によって新しい飛躍を受けました。確かに、イエスの死は神が望まれた「新しい世界の誕生」です。 同時に、キリストの復活は死と罪を滅ぼした「永遠の命の力」を私たちに与えました。

  今日から始まる聖週間の間に、イエスに感謝する時間を作りましょう。 イエスと一致して晩餐の雰囲気を味わい、十字架の道を歩み、命を豊かに湧き出させるイエスの十字架を礼拝しましょう。 そして最後に、復活の光と喜びを心に受け止める準備をしましょう。 聖週間の典礼に与ることによって、私たちが神の愛の深さと広さを悟り、またローマの百人隊長と共に私たちも、次のように宣言することが出来ますように。 「本当に、この人は神の子だった」と。 アーメン。



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